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⚠️CoCシナリオ「鰯と柊」HO鰯(教祖)の二次創作小説です。親子関係にまつわる痛ましい描写が含まれます。本作には、それらの要素を肯定する意図はありません。ご承知おきください。

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「だっこして……」  私の腹を出たはずの子供が外に出た後もくっついて回る。おいで、と腕を広げると、その子供は何を考えているのかよくわからない瞳をこちらに向けて、笑いもせずに膝に乗る。  柔らかな癖毛が光を吸って他人事みたいに伸びている。一度は身体の一部だったものは、随分重くなっていた。  昔から大人しい子供だった。前の住まいで保育園を見学したときも「あまり喋らないですね」と眉を顰められた。この子がおかしいみたいに言って、腹が立った。年老いた園長はアレルギーを訊ね、他の子には内緒だとスティックパンを渡した。得がそれをパクパク食べるから「お腹空いてたんだね」と笑われた。あいつらは父親に見捨てられた貧しい親子を憐んでいるだけだ。こんなところに居たらきっと得は可哀想な子になってしまうから、守ってあげなきゃいけないと思った。みんな何もわかってない。胸がざわついて仕方ない。頭が痛い。 「降りて」  一言で、得はすぐに膝から降りる。さっきまで纏わりついていたくせに、すんなりと離れる。 「……ねえ、なんで喋んないの? お母さんと喋りたくないんでしょ。それならもうお母さん辞めていい?」  小さな肩が、暗がりの中でびくりと揺れる。まるで可哀想な子供を演じているみたいで、腹が立つ。 「まま……」 「ママって言うのやめてって言ってるでしょ」 「お、おかあさん、やめないで……」 「なんで? アンタ全然喋んないからお母さんが馬鹿にされるんだよ」 「ごめんなさい……」 「得はお母さんが馬鹿にされても平気なんだ?」 「やだ……」 「でもお母さんがみんなから馬鹿にされるのは得のせいだよ」 「ごめんなさい……」  泣き出してしまって、まともな会話にならない。私はずっとあなたのお母さんをやってきてあげた。どうして私を加害者みたいにするの? 「あんたがパンを食べるからすごく恥ずかしかった。どうしていい子にできないの?」 「ごめんなさ、い……」 「顔見たくない。一人にして。お風呂場に行きな」 「おふろばやだ……」 「なんでそうやって困らせるんだよ。得はお母さんが嫌がることするの好きなんだ?」 「…………」  ぐずぐず泣いて、細い脚で立ち上がる。私が昔着てた安物のTシャツを引きずって、得はお風呂場へ向かう。電球ひとつしかない家は、夜になると隅々まで影が溜まっている。この家には、風呂場とこの部屋しかない。 「おかあさん、ドア、あけて……」 「早く覚えて」  結局風呂場へ行って、ドアを開けてやる。得は「おかあさんありがとう」なんて言ってお風呂場に入っていく。トイレと一緒になってて、黒カビが目立つ。洗っているはずなのに、シャワーの水を浴びたところから腐っていくような気がするから、引っ越したかった。そんなお金もない。 「おかあさん」 「何?」 「むかえにきてね……」 「あんたがいい子にしてたらね」 「うん……」  裸電球の下で、ヘラヘラと笑っている。どうしてこんなところばかり似ちゃったんだろう。男の子だから? あの人も帰ってくるたびにヘラヘラ笑って自分だけは天国にいるみたいな顔をしていた。何もしないくせに、何もわかってないくせに、自分だけは正しいみたいな顔で、何も悪いことをしてないみたいな顔で、でも昔はそんなところに騙された。  得が空の浴槽に入る。蓋を閉めなきゃいけない。隠しておかないと、可哀想な子にされる。 「おかあさん」 「急に話しかけないでよ!」 「あ……あのね、いい子にするから、むかえにきてね……」 「わかったよしつこいなぁ!」 「うん……」  巻かれた蓋を伸ばして、得を仕舞う。これで一人になれる。電球の明かりの届かない奥、私の目の届かないところで、大人しくしていてほしい。この子はそれだけのことがどうしてできないんだろう。

纏わり付く子供がいると、一人になれない。泣き声が壁や天井に反射して薄暗い部屋まで響いてくる。頭が痛くて、昼も夜も同じ暗さに思えた。ずっと夜みたいだ。昔は母乳が出なくて、ミルクが高かった。だから得はあんなに小さくて喋らない子供になったのかもしれない。本当は、私のせいなのかもしれない。  目を閉じる。夢を見る。あの人はまだ仕事をしていて、まちまちだけどお金を入れていた。雪の降る夜、ケーキが食べたいとあの人が言うから三人で少し遠くのスーパーまで歩いた。街灯の下、店の前には大きなツリーがあって、得がずっと見ていたから、抱き上げてやった。冷たい空気の中、子供の体は小さくても暖かくて、こんな安っぽい電飾でも光っていれば綺麗なんだなと思った。クリスマス用のロールケーキを買って帰り、手づかみで食べようとする得に、一口ずつ食べさせた。あの時は、笑っていた。

目が醒めると部屋は真っ暗だった。得はどこ、と探そうとして、お風呂場に入れたのを思い出す。台所で水を飲み、暗い廊下を抜けて浴室の扉を開く。いつもなら物音で気づいて呼んでくるのに、今夜は静かで、あのかわいい子供が死んでしまっているんじゃないかと怖かった。

蓋の下には眠っている得がいた。棺桶みたいだ。 「得、もういいよ」  呼びかけると、魂を吹き込まれたみたいに目を開いた。 「おかあさん……」  黒いしみの浮く密室の中、色白の得が笑って私を責めている。部屋から出さないから、同年代の子と話をさせないから、ご飯が足りてないから、お金がないから、ちゃんと笑わせてあげられないから、私の失敗を、行いの全てを突きつけくるようで、恐ろしかった。遠ざけたかった。 「いいこにしてたよ」 「どうやって?」 「しずかにして、あたまなでてたの」 「……いい子なの?」 「きてくれたから……」  私がいなければ静かに死んでいたみたいな顔をして、笑っている。私が居なければ生きていけないと告げられているようで、吐き気がする。それがどうしてもかわいくて、恐ろしくて、本当はもっと優しくしたいのに、「優しくしたい」と言えばそれだけで赦されてしまうような気がした。 「得、ごめんね。お母さん怒りすぎちゃった。もっと優しいお母さんになるから……」 「おかあさんやさしいよ、おかあさんすき」 「本当? 得はお母さんのこと好き?」 「うん、ボク、おかあさんだいすき」  胸の奥がじんと熱くなる。さっきまで責め立てられているようで怖かったのに、「好き」と言われると、それだけで自分が赦されたような気がしてしまう。 「……得はいい子だね」  伸ばした手のひらがじっとりと汗ばみ、子の髪に触れる。やわらかな毛先に指先が沈むたび、薄暗い部屋にかすかな匂いが立ちのぼった。撫でられている得は、自分が何をされているのかもよくわからない顔で、それでも嬉しそうに身を委ねていた。  弱い電球の灯りの下、窓の外の街灯がカーテン越しに滲む。カビの匂いと埃が混ざったこの部屋で、二人きり。湿った影に押しつぶされそうなこの片隅は、愛に満ちていると思えた。  得は涙の痕も忘れたように、にこにこと笑い、言葉を探している。 「……どうしたの?」  視線を絡めたまま、少し黙ってからおずおずと口を開いた。 「おかあさん、……だっこして」  今度は、上手に出来そうな気がした。