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⚠️CoCシナリオ「鰯と柊」HO鰯(教祖)の夢小説です。この作品には、性的逸脱、加害と救済の倫理、そして信仰による免罪の構造が含まれていますが、本作には、それらの要素を肯定する意図はありません。ご承知おきください。
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俺は呪われている。だから、どこにも居られない。
楽園にはオレンジが成るのだと俺は知らなかった。理不尽に踏みつけられ見放された人々が、最後に縋って辿り着ける開かれた聖地。青空の下、オレンジの庭で子どもたちが駆け回る。山奥に位置するこの場所は、便利とは到底言えないが、生活は満ち足りていた。 この教団には孤児院が併設されていて、子どもたちは日中をそこで過ごす。就学前の子どもが中心で、義務教育を必要とする年齢の子どもは少ないが、親のいない子は教団内部で暮らしている。現実的に通学が困難な山の中でも、彼らには教育が必要だった。かつて門を叩いた俺は、世俗で教育業に関わった経験から指導役に任命され、時々子ども達を相手に寺子屋のような真似をしている。 ささやかな黒板と作成したプリント、それから使い古した教科書を使用した牧歌的な教室だ。ノートに鉛筆の芯を押しつけすぎて折ってしまった子、指を舐めてページをめくろうとしている子、教科書の挿絵の人物に色鉛筆でほっぺを塗っている子、まさに十人十色が並んでいる。勉強に集中しているというより、「怒られないように頑張っている」といった空気を纏う子も少なくない。年齢もばらばらで統一感には欠けるが、ここではこれが日常なのだ。 「あ……せんせー、これはどうやってとくの? 数が変で……」 低学年ほどの子どもが駆け寄ってくる。おずおずとこちらの様子を伺ってくる子が多いのは、この教団にいる子ども達の特徴かもしれない。 「見せてごらん。……もう筆算をやってるんだね。二桁と二桁の筆算は……そうそう、最後に数を足してあげるんですよ」 説明すれば、熱心に耳を傾けている。指導要領に照らせば少し早い内容だが、個人の素質に合わせた指導ができるというのはこの場所の利点だ。 世の中の基準で言えば、ここは「認可外の民間教育施設」ということになる。それでも、この場所で暮らす子どもたちにとって現実的に意味があるのなら、それは続けるべき行いだ。悪意によって簡単に傾く場だからこそ、善意を持って彼らを導く誰かが必要だ。その「誰か」として、この子どもたちの役に立ちたい。 「せんせー、できたよ……!」 「うん、もうできるようになった。本当は三年生でやるところです。覚えがいいですね」 成果を褒めてやると、照れ臭そうに、遠慮がちに笑う。素直で、褒められ慣れていなくて、大人からの視線に飢えている。 この子たちの多くは、前の学校をうまく通えなかったか、最初から籍がなかった。書類上どこにもいなかった子もいれば、通えないまま置き去りにされた子もいた。親の顔を覚えていない子もいるし、迎えが来ると言われ続けて、誰も来ないまま数年を過ごした子もいる。 それでも、ここではちゃんと手を挙げて、わからないと声を出せるようになっていた。この子たちは、何かをわからないと言えるようになるまでに、どれだけの沈黙を越えてきたのだろう。想像に容易く、俺は教育者として彼らを守らなければいけないと強く思い直す。 彼らには適切な教育が必要だ。ここ最近でずいぶん規模が大きくなったという教団内で今後も暮らしていける見込みがあるとはいえ、いずれ外に出たくなることもあるだろう。世俗がカルトに持つイメージとは異なり、人を縛らない場所だ。去るものを追わず、来たるものを受け入れる。そのとき、この教団で過ごしたことが重荷とならないよう、授けるべき知識がある。 使命、裁量、やりがい。緑に囲まれた澄んだ空気、素直な子どもたち。これを幸福と呼ばずして何が幸福だろうか。 開け放たれた窓から風が舞い込んで、柑橘の淡い香りが運ばれてくる。 「あ、教祖様だ」 一人の子どもが呟いた。 「どこ?」 「あそこ、ほら、芝生のとこ……」 「ほんとだ……」 存在を気にした子どもたちがざわざわと顔を向ける。そわそわして、教科書から目を離す子どもたちに釣られて俺も外を見れば、そこには確かに教祖様が居た。白い肌が陽の下でまばゆく照らされ、ゆったりとした服の裾が風に揺れている。幼い顔立ちに、どこかぎこちない歩き方。遠目には少年のように見えるが、どこか浮世離れしていて、同じ世を生きていると思えない。 「せんせー……教祖様がお外にいる……」 一人の子どもが、親切らしく俺へ教える声で、はっと我に返る。惜しむ視線が教祖様と交わった、気がした。大回廊で見かけた、あの魚のような目に見咎められている気がして、すぐさま子どもたちを諌めに戻る。 「ああ、本当だね。でも皆さん、今は授業中ですよ」 「はーい」 「ごめんなさい……」 謝罪しながらもちらちらと気を取られている。この年頃の子どもは興味を抑えきれないものだ、と言いたいところだが、それは自分も同じだった。青空の反射を受けた髪が光に透けていた。首筋から耳へかけての線が、日差しに白く滲んで──見てはいけない。今は授業中だ。 「教祖様は直にこちらに来てくれるかもしれないですね」 「ほんと?」 「ほんとさ。だから勉強を頑張りましょうね」 視線の方向と足取りを見る限り、この後、教祖様はこちらへいらっしゃることだろう。今日は授業にならないかもしれない。密かに嘆息を吐く。
◆
「教祖様、ようこそいらっしゃいました」 「お勉強してたんだ。いい子だね。今は休憩時間でしょ?」 教祖様がほんとにきた、先生の言うとおりだったね。子ども達が嬉しそうにはしゃいでいる。教祖様は毎朝礼拝にいらっしゃるのだし、この場所へも何度か訪れているが、それでも子どもたちにとっては感動的な出来事なのかもしれない。世俗に勤めていた頃、有名人が来校したときの児童の高揚に似ているが、それとも確実に違っていた。目の前に直接挨拶をしに来てくれた、というのが重要なのだろうか。 「みんな教祖様に頑張ってる姿を見せたいんですよ。教祖様はこちらへ何か御用でしたか?」 「用って言うのかな? みんなの顔が見たくて来たんだよ」 ねー、と生徒の一人と顔を見合わせる。エル様というお人は子ども達との距離が近しいようだった。本当に、ただ子どもの顔を見に来ただけなのだろうか。何か他の目的があるのではないか? この頃はお疲れのご様子を見かけることがあると噂が回っていたが、今は落ち着いているらしい。鬼灯という男が入ってから、回復しているようだと他の信者が噂していた。確かに、顔色は悪くない。 「守栖様はいらっしゃらないのですね」 「藤司くんは幽々に捕まっちゃった。難しい話をしてる……」 よくあることなんだよ、と眉をしかめ口を結んでみせる。失言だったかもしれない。子どもの一人が教祖様の足元に抱きつく。よくそうしているらしく、教祖様は話しながらその子どもの頭を撫でる。 「幽々は帳簿を付けてるでしょ? 藤司くんと幽々はね、お金の相談はボクにしないの。見なくていいって言うんだよ」 「それは寂しいですね」 教祖様は不服そうにしているが、二人の意図はよくわかる。俺だってこの人に金勘定の相談はしないだろう。簡潔に言えば「尊いお方」にすべき話ではない。金はしばしば穢れに分類される。 「寂しい……そうかも、そうなのかな?」 清らかなままでいることを願われている瞳が覗き込む。わかったような、わかっていないような返事。これは相手の顔色を窺うための返答だ。相手の機嫌を損ねないように話す癖、気まぐれな親を持つ子ども達にも見られる特徴。探索的反応だ。こちらが否定しないか、測っている。 これではまるで子どもそのものだ。年齢不詳で神秘的な印象があったが、初めに感じたものとはずいぶん違って見える。教祖様との謁見は儀式が中心で、こうして会話を交わすとなると、相談会にまで遡る者も居るだろう。彼らはこの姿を知っているのだろうか? この人にも生身の年齢というのがあるはずだ。二十六億人の信者を抱える宗派の教祖だって肉体の年齢というのは数えられていた。三十代程度だっただろうか。この人も、少なくとも成人は迎えているように思える。なのに、噛み合わないほどの少年性がそこにある。年齢相応の言葉や振る舞いをこの人の中に探そうとしても、いつもどこかで思考がもつれる。それが意図的でないのだとすれば──不敬な思考を振り払う。この教室を訪れた者を分析したがるのは、俺の悪癖だ。 「教祖様、さびしいってほんと?」 いつの間にか足元を離れていた子どもが別の子どもを連れて、これあげる、と折り紙を差し出した。 「欲しかったんだ。ありがとう」 受け取ってから欲しくなったのか、それともただの社交辞令かわからないが、教祖様はその施しを喜んでいらっしゃるようだった。 それからは早かった。みるみるうちに「ぼくもあげたい」と騒ぎになり、教祖様に力作を贈る会が急遽開催された。折り紙、画用紙に描いた絵、花冠などとにかく彼らにとって精一杯の好意が教祖様へと集まった。教祖様はそれら全てに一つずつ感想を述べ、涙さえ浮かべていた。いくら慕われているといえど、この場所に時折足を運びたくなるのも道理かもしれない。教育実習生だったときの俺よりも随分人気があるようだ。 「みんなはしゃいでしまいますね」 「ボク来ちゃだめだった……?」 「いいえ。でも、そうですね、休憩時間か、授業が終わった頃合いのほうが助かります。小さい子は特に喜んで、授業にならないんです」 彼らは特別な視線を欲している。この教団で最も尊いお方から、褒められたくて仕方がないのだ。 「そうなんだ……ボクも嬉しい……」 言葉通り喜色が混じっていて、立場を思えば大袈裟なようですらあった。 「ボクもみんなと勉強しようかな」 「教祖様がですか?」 「帳簿が読めたらさ、藤司くんと幽々もきっとボクともっと話をしてくれるよね」 「教祖様が同じ教室では、それこそ授業になりませんよ」 毎日が世俗のバレンタインのようになってしまいます、と口にしかけて、これは信仰上のグレーゾーンなのではないかと口を噤んだ。あの聖人は、一応異教の者だろう。 「帳簿って難しい?」 「そうですね、簡単ではないかもしれません。算数は必須ですね」 「算数はわかると思うよ。でも、帳簿ってわからないよ……キミはわかる?」 「そうですね、専門的な複式簿記とまでいかなければ多少は……」 真菰様がどれほど厳密に処理しているかはわからないが、数字が合わないと嘆いている姿を見かけると聞くので、簡単な計算ができるだけでも彼らの話の意味はわかるかもしれない。そう考えていると、机に頭を預けた教祖様がそのまま、甘えるように提案した。 「ね、キミが教えて?」 「光栄な話ですが、私はいずれこの場を去らないといけないので……」 瞬間、教祖様の目が揺れた。 「ど……どうして!?」 吸い込まれるような光を帯びた瞳が、何かを捕まえ損ねたように泳いだ。 「……教祖様?」 「いやだった? 仕事に疲れたの? 弥也に替えてあげてって言った方がいい?」 必死に捲し立てている。話がつかめない。 「あ、え……ええと、誰に……」 「弥也だよ。鬼灯弥也! ボクたちの仕事を調整してくれてる。それとも波芭のほうがいい?」 「あ、ああ、鬼灯様ですね。失礼しました。いえ、ご多忙な鬼灯様や公喜様の手を煩わせるような理由ではありませんよ」 「じゃ、じゃあ……でも……ッ! だって、ここにはずっと居ていいのに……!」 「俺の……わ、私の問題です。教祖様が気に病むことではありません」 「そう……なの?」 じゃあなぜ、とすぐにでも問い詰めたいのだろう。「去る者を追わない」という暗黙の了解は、ひとつの不文律だ。それは教祖様にとっても例外ではないのだろう。必死に平静を保ち、自ら納得しようと努めているように見えた。 「…………そうなんだ」 空気の抜けた風船のように萎んでいく。教祖様の声は、明らかに沈んでいた。一人の信者がここを去るなんて珍しいことではないと思っていたが、この人にとっては違うのだろうか。──いや、わかる。俺にはこの人がわかるだろう。しかしそれは、信仰を腐す行為かもしれない。それ以上、考え続けるのが怖くて、俺は口を開いた。 「この教団や待遇に不満があるわけではありませんから、どうか……」 どうか、なんだと言うのだろうか。気に病んで弔ってくれとでも、言うつもりなのだろうか。内心、悪い気はしていないくせに。 教祖様は肩を落として「ここにいるうちは、たまにでいいから教えてね」と眉尻を下げた。
◆
「教祖様が、どうしてこのようなところへ……」 今日は似たようなことばかり尋ねている。教祖様に与えられた部屋は、俺が一室を与えられている男子寮とは別のところに位置するはずだ。 「キミが困ってるみたいだったから……だめだった?」 「このような時間に……」 「だって休み時間じゃないとダメだって……」 キミが言うから……と言葉尻がどんどん小さくなっていく。キミがそう言った、だから今なのだとでも言いたげな視線を感じる。実際にそうなのだろう。 「……夜中の外出は」 「ここは外じゃないし、藤司くんだって外で走ってるらしいよ?」 比較にならない、とは言えなかった。守栖様は体格的にそうそう危険がないのだと教えるには、あなたは弱いと突きつけなければならない。生まれ持った要素で避けられない不自由があるのだと、この人に伝えるのは憚られた。 エル様は靴下も履かず、薄手のローブのまま立っている。 視線を逸らせば、罪になる。目を合わせれば、試されている気がする。きっと今の俺を誰かが見たらしどろもどろだと指を差して嘲笑うだろう。 「寒くはないのですか?」 「さむいよ……! 入れてくれないの?」 信じ難い現状だが、駄々を捏ねているようにしか見えない。 規則違反を指摘しようにも、この方はその規則の制定をひっくり返すだけの立場がある。 人目についた結果、ひっくり返されたり締め付けが強くなる方が不都合が生じるだろう。風邪でも引かせたとなれば、よもや俺の責任問題と言えるかもしれない──責任のせいにしたいのは、俺の弱さだった。だから俺は呪われているんだ。 「まだ夜は冷えますから、どうぞ中へ」 教祖様は、満足そうに微笑んだ。
◆
夜まで授業準備をすることから一人部屋を与えられているが、決して広い部屋ではない。椅子もテーブルも小ぢんまりとしていて、客人を迎えるような空間ではなかった。どこか引け目を感じながらティーテーブルへ案内すると、教祖様は当たり前のようにその椅子へ腰掛けてみせた。 一介の信者の部屋に、神の子がまるで疑問のないような顔でちょこんと座っている。 明かりの節約された部屋は薄ら暗く、橙の照明がぼんやりと教祖様を照らす。どこか倒錯的な光景だった。 カップは二つしかない。教団備え付けの、取っ手が少し欠けた白磁のものと、俺が自費で持ち込んだ少し薄手の陶器。世俗の職場で使っていたマグカップはとうに捨ててしまった。 「お湯、すぐに沸きます。お待ちください」 うん、とどこか上の空じみたか細い返事が返ってきた。ただ、湯気の立ち方を興味深そうにじっと見つめている。この部屋のポットは温度が不安定で、何度か沸かし直さないと香りが立たない。沈黙の間中、手元に視線を感じていた。見張っている、というわけでもなく、ただ観察しているのだろう。まるで、失われた文化を見る学者のような目だ。 熱湯を注ぎ、茶葉が踊るのを見ながら、ふと思う。 この方は、ご自身で紅茶を淹れることはあるのだろうか。湯の温度。蒸らし時間。そういう小さな工程を、誰かに習ったことがあるんだろうか。それとも、すべて与えられるのが当たり前の世界で生きてきたのだろうか。 神の子をおもてなしするのに安物の茶葉でいいのかわからないが、当人は一連の作業を記録するかのように眺め続けていた。 「ミルク、入れますか?」 「ううん……そのままがいい。香り、きれいだね」 紅茶に視線を落としたまま答える声は、感嘆の色をしている。差し出すと、エル様の指がためらいもなくそれを受け取った。 薄く、血管が透けて見えるような肌を、カップの熱が温めていく。エル様は少しだけ目を細めて、「あったかい」と呟いた。それは俺に言ったのか、紅茶に言ったのか、判断がつかなかった。 「先生は、よく、こうして淹れてるの?」 「ええ、子どもたちが寝たあと、よく飲みます。落ち着くので」 「……いいね」 ティーカップを両手で包むようにして、エル様は口元に寄せた。唇が、白磁に触れる。 「味と香りが似てないね……?」 少し不思議そうな顔をして、一口分飲み込む。 「これは特にそうかもしれませんね。お口に合いませんでしたか?」 「そうなんだ? ううん、おいしい。お茶っていろんなのがあるんでしょ? これは何?」 「ダージリンのアールグレイです」 「……それってどっち? 何が違うの?」 「ダージリンが茶葉の名前です。いろんな茶葉にベルガモットの香りをつけたのが、アールグレイと呼ばれます。ベルガモットは柑橘類……オレンジの仲間なんですよ」 説明しながら、目の前のカップに視線を落とす。薄くたゆたう蒸気が、静かな夜の空気をわずかに揺らしていた。 「じゃあ、ベルガモットが入ってなかったら、アールグレイじゃないんだ?」 「はい。香りがなければ、アールグレイではありません」 「ふしぎだね。おんなじ葉っぱに、香りを足すだけで別のものになるんだね……」 ぱちぱちと瞬きをして眺めるこの人に、どうしてかこの茶葉が似合う気がした。 その夜、俺とエル様は他愛ない話をした。転職理由を尋問されるような圧力があるわけでもなく、ただ、庭の様子がどうだとか、花冠が流行りつつあるだとか、そういうことを聞かせれば、エル様は目を細めて幸せそうに耳を傾けた。
◆
エル様はその日を境に、時々俺の部屋を訪ねるようになった。噂になることもない。特別扱いということになりやしないかと他の信者にそれとなく確認すれば、教祖様が個人の部屋を訪れることは度々あることらしかった。教祖様の動向はやはり黙認されているようで、自分の部屋にも来たという男は昼間に来た教祖様に、相談を聞いてもらったと話していた。どこか誇らしげな口ぶりだった。 教祖様はしばしば俺を頼りに来た。勉強を教えて、と言っていたように、ときどき教科書の内容を話してやると、真剣に聞いていた。ひとつずつ確認して、教えてやると、教祖様もパズルを解くように楽しんでいた。 「お忙しい中、我々の元へ足を運んでくださるんですね。子どもたちも喜んでいます」 「ほんと? そっか……そうならいいな」 「そうですよ」 肯定すると、頬を染めて機嫌が良さそうに足を揺らす。 「神様はボクのお願いを聞いてくれる。でも、なんでも叶えてはくれないの。でも、ボクはここにいるみんなに、何か……何かしてあげないといけないでしょ? だから……」 「だから?」 「……ああ、そうそう……だからこうして、みんなの話を聞きに来てるんだよ」 ティーカップを両手で握り込み呟く姿が、不自然に見えた。皆から愛され、受け入れられ、尊い人として扱われるこの場所で、この人はどうして自らを薪に焚べ続けるような物言いをするのだろうか。ただの慈悲というだけでは、もう説明がつかないように思えた。 俺には少しずつ、エル様のことが理解できるような気がしていた。 未成年の頃から教団の中心にいることから窺える、その出自の特異性。父も母もろくに知らないこと。ここにいる子どもたちと、共鳴していること。一つ一つが結びついて、確信めいた疑問が頭をもたげる。 ──この人は、ただの子どもなんじゃないだろうか? 振り払うべき不敬な思考かもしれない。しかし神の子も器は人の子のものと同じであるはずだ。その身が奇跡を起こすことと、何も矛盾しない。 そして俺はこの方がどうして俺の部屋を選んで訪れるのか、少しずつ確信していた。「誰かが居なくなる」という出来事そのものが、この人には耐え難いのだ。そしてそれはおそらく、この方の「人間的」な一面だろう。 「私にはあなたが時々子どものように見えます」 「ボクは子どもじゃないよ。成人のときにはお祝いをしてもらった」 「お祝いですか……」 「うん。髪を切ったんだよ。昔はもっと長かった。頭が軽くなって驚いた……あの髪どこ行ったんだろう」 エル様が目を細めて懐かしむ。捨てられているのではないか、と口にしようとして、飲み込んだ。ご利益のあるお守りとして中に入れるだとか、あるいは、もしかすると、もっと口にできないような使い方をされているかもしれない。この教団の金策はか細い。どれも無根拠な憶測だ。事実について誰がどこまで感知しているかはわからないが、少なくともこの人にそのような話は届かないだろう。そのように在ることを望まれている。そして俺も、同じことを望んでいる。 「キミのこと弥也に聞いたよ」 「……鬼灯様に?」 カップを摘む指が、ピシリと強張る。教祖様はそれを見逃してくれたのだろう、言葉は続けられる。 「そうそう、キミが居るから子どもたちは健やかだって言ってた。外で先生をしてる人がいて良かったって」 「ああ……その話ですか。ええ、小学校に居たんです」 「うん、ボクも思い出した……相談会でボクに会ったでしょ? 藤司くんが一緒にやってくれる前はね、みんなそうだったんだけど」 「よく覚えていますね」 「……どうして忘れてたのかな。ごめんね」 物忘れが多くなっている様子は見られた。噂の通り、教祖様はお疲れでいらっしゃるのだと少しずつ思い知らされた。話していると、ああ、今も完全にお健やかではないのだろうと推し量るには十分だった。内心を悟られぬよう、口角を上げる。謝罪を受け入れてくれたと判断した教祖様は続ける。 「キミは先生を続けられなくなったって言ってた……」 俺はこの人に何をどこまで話しただろうか? 「……外ではいろいろなことがありましたから」 「でもここに来てくれたね。外に出たらまた先生をするの?」 「いえ、私は、もう……」 「そうなの? 先生してるとき、楽しそうだから……ボク、学校って行ったことない。ここでキミが教えてるのと似てる?」 「どうでしょう。昔の学校は似たような形態かと思いますが」 尋常小学校、教育勅語、学制改革──どの語も、この場所を説明するには古びすぎていて、的外れだった。義務教育という言葉すら通じない気がした。 「そうなんだ。楽しいのかな……藤司くんはね、頭がいいから外でもお勉強をしてた。でもあんまり聞いたことないから、何をしてたのかはよくわからない。いろんなことに詳しいし……一生懸命だよね」 守栖様の話をするとき、教祖様は極めて無邪気だった。旧知の部下、にしては親密そうな口ぶりで、聞けば子どもの頃からの付き合いがあるらしい。 「藤司くん、夜はあまりボクのところに来てくれないんだよ。子どもの頃はよく一緒に寝てくれたのに……」 教祖様の素足が、机の下で靴下越しの俺の指に触れ、そのまま絡みついた。鍵盤でも弾くように撫でられる。指の肉が柔らかい。遊ばれている。 「それは……」 「『寂しいですね』……かな?」 教祖様は首をわずかに傾ける。神の掌の上で転がされるというのは、こういうことなのかもしれない。それなら、降りかかる理不尽も幸福の一種なのだろうか。 「……教祖様、足が触れています」 「ぶつかっちゃった。ねえ先生、これちょっとおもしろいね」 俺は微笑んだ。穏やかに、教祖様が気まぐれに投げた小石の波紋を、ただじっと見ているかのように。胸の奥が騒いでいることを、俺自身にすら知られないように。
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俺はどこかがおかしい。いや、どこかじゃない。全てだ。この教団に来る前から。善良さに混じる異物。互助の中に放たれた一匹の攻撃性。授業準備をしながら、俺はエル様を待っていた。毎晩来るなどとは約束されていないのに、何かを期待して、朝日を見る。遠くから礼拝で眺めるだけの日々。それは当たり前の日常だ。適切な距離。求めていたはずの満ち足りた日々に戻ったというだけ。それが欠けているように感じられるのは、俺が贅沢を覚えたからだろう。エル様が来ない。別の信者の元へ行っているのかもしれない。それでいい、エル様の関心は他の者に向けられるべきで、俺はエル様に近づくべき人間ではないのだ。なのに、俺は朝日を見てはまた嘆息している。悟られたのではないか、と一瞬の疑いが起こる。エル様は俺を見透かしているのだ。軽蔑の眼差しで、エル様は俺を裁くのだろう。
◆
その夜は突然訪れた。 待ち望んだノックの音が鳴り、俺はなるべく平静を保ちながら教祖様を部屋へと迎え入れる。エル様は丈の長いシャツのような装いで、いつも寒そうに見える。だから迎え入れるのは当然だ。 「今日も紅茶?」 「もしよろしければ、オレンジジュースもありますよ」 「本当? 嬉しいな……みんなが用意してくれるものってボクは好き」 「教祖様のお口に合えばいいのですが」 コップを差し出した指先が、ほんのわずかに震えていた。それに気づかれないように、俺は視線を逸らす。慰めるでも、疑うでもない。何も決めていないようなまなざしが、こちらを見ている。 ジュースを持ち上げた教祖様の手は、小さくて、軽そうだった。少年のように細く、力の入っていない指先が、俺の視界をよぎる。何も知らないその手が、今こちらに向かって伸びたら──そう思った瞬間、喉の奥から何かがせり上がる。 「ジュース、冷たくておいしいよ……先生も飲む?」 そんなふうに言って、エル様はにこりと笑った。光に透けた喉が、ジュースを飲み下すたびに、小さく動いた。眩しくて、視界の端が白くにじんだ。触れもしないのに、どこかを刺されるような痛みが走る。 「いいえ、私はいつものがありますから」 エル様は、しばらく黙ったままカップを揺らしていた。 なにかを測るように、俺の顔を見ていた。 「おいしいのに……オレンジも自分たちで育ててる。最近は畑のプチトマトも甘くなってきた。朝に食べられるんだよ」 「……楽園、ですね」 「そうだね。みんなと一緒に暮らせて、ボクは幸せ……」 エル様は、もう一度オレンジジュースを口に含んだ。 「でも、先生はいつも寂しそう」 まるで、事実をただ述べたようだった。内側を掴まれているような感覚に、まともな言葉が出てこない。 「……だれかがキミにひどいことをした。ボクはそれが許せない。だからボクは神様にお願いして、キミはここにいる……もう安心していい。そうでしょ?」 足りない頭でもわかる。これは一種の告白だ。この人は、怯えている。俺にはもうわかっている。この人は、自らを離れていくことの全てが、恐ろしくてたまらないのだ。それなのに俺は。 「ねえ、先生、教えて。何が足りないの?」 「足りないものは、ありません」 自分でも驚くほど、声がかすれていた。 「……ここには居られないって、どうして?」 今度は、落ち着いた問いかけだった。語気の強さはないのに、逃げ場がない。教祖様の骨格は小さく、筋肉は薄く、皮膚の下で血管が透けて見える。 「俺が……俺だから……」 言葉を紡ぐこと自体が、もう汚れている気がした。 「……私はだめなんです」 「何が良くないの? だれかがキミに酷いことをするの?」 ぬるい紅茶を口に含む。一口飲んで、空になる。痺れるような苦味が出ている。落ち着くどころか焦燥感が増すばかりだ。 「お、俺は……いえ、俺が……俺の問題で……」 吐き出しかけた言葉が、喉で詰まって戻ってくる。舌の奥が焼けるようで、視界が揺れた。 「ねえ、大丈夫……?」 エル様が、こちらへ掌を伸ばす。 「俺がだめなんだ、危険なんです!」 払い除けようとした手が机上のコップを弾いて、倒れた果汁がエル様の白い服に跳ねる。大変なことをしてしまった。大変なことをしてしまった。浅い息が口から漏れる。ああ、床にカーペットが敷かれていてよかった、なんて吸音性を気にして的外れなことを考えていると、目の前の教祖様は怯みもせずにそっと背を撫でに来る。あたたかく、柔らかく、逃げられない。 「……どうしてそんな風に言うの? キミがかわいそうだよ」 「あ、だって、今だって、教祖様のお召し物を汚した」 「すぐ落ちるよ。皮をお掃除に使ってる子もいたし……落ちなくてもこれは寝るときの服だ」 小さな手がゆっくりと頬に伸ばされる。いつのまにか滲んでいた俺の涙を指ですくって、その雫を舐め取ってみせた。水滴の処分に困ったから、ただそれだけとでも言いたげな仕草。 「泣いてる子はかわいそうだね。ボクはかわいそうな子が好き……」 教祖様が細い指を舐めた水音が、背徳的に響いていた。 「……濡れちゃったね。ボクさむいな。ねえ、着替えさせてよ」 それは贖罪の提案だったのかもしれなかった。エル様の衣服からオレンジの香りが漂う。高い声、白い肌。肋や鎖骨の浮いた身体が光に照らされ、濡れた布の下に透けている。 「いけません」 「どうして? ボクはいつも着替えさせてもらってる。キミの服を貸して?」 「それでもなりません」 「だって、抱っこしてあげたいんだよ。このままだとキミも濡れちゃう……」 仕方ない、とでも言うようにエル様は狭い寝台へ向かった。毛布で暖を取りたいのだろうかと見ていると、シャツのボタンを、下から一つずつ外し始めた。俺を濡らさないための動作が、窓の外に見た歩き方のようにぎこちなく、眩い光景から目を逸らせなかった。首元の、最後のボタンが外されて、エル様はシャツを寝台に脱ぎ下ろした。 その身体は浮き上がるように白く、どこか歪なほど未発達で、肉体は薄く、難なく抱え上げてしまえそうで、彼を子どもじみて見せる全ての要因が俺には目を逸らせない魅力に映る。 「ねえ、こっちに来て。慰めてあげる」 両腕を伸ばして告げられるその試練にはきっと他意などないのだろう。 「来てくれないの?」 「俺はもう……子どもじゃないから……」 答えながら、自分の声の震えに気づく。 「ボクも子どもじゃないよ」 ただ事実を置くような、静かな声だった。カップをテーブルに置くように、事実を差し出すだけの声。蔑むでも、憐れむでもなく、ただ自分はそうではない、と示すだけの宣言。 そうだ。この人は子どものまま、神の子のまま大人になった人。だから、世間は、この人は、俺を咎めはしない。 この人の前でなら、俺は俺のまま、正常に存在できるのではないか。 「ボクが聞いてあげる。キミは、どうして泣いてるの?」 「エル様……聞いてほしい……」 「うん」 足が鉛のように重い。 「……みんな、俺にひどいことを言うんだよ」 「うん」 一歩ずつ、エル様の座る寝台へと向かう。 「みんな俺がやったって言うんだ……俺は何もしてないのに」 寝台の足元に辿り着いて、俺の膝は床へ着いた。 「俺は触れたことなんかなかったんだよ! みんな俺がやったって、俺は隠れてたんだちゃんと! それに子ども達にひどいことをしたことも、そんな風に見たことだって……見ないで済むようなところに俺は居たんだ! 俺は大人だから、あいつらと違う、だからちゃんと責務を果たしてた!」 「そうなんだね」 「だから…………俺は探したんだ。自転車で這いずり回って! 人として当然のことだ。でも、でもそれで目をつけられたんだろうなあ……」 担当する児童が行方不明事件に巻き込まれた。気性の荒い女の子だった。どこかませていて、大人びていて、俺にとっては扱いづらく、取っ付きにくい存在だった。だからそこは本当に無実なんだ。熱心に探す俺が警察は邪魔だったのかもしれない。奴らに秘密を暴かれ、所持品を軽蔑され、疑いは強く、自由の身になるまでの数日間は異様なまでに長く感じられた。戻ってからも、影響は色濃く、俺の信用は失墜していた。 世間において俺は小児性愛の異常者だ。 該当児童には必要な場面以外で触れたことがないし、本当に、心から、彼らの幸福を願っている。それとこの欲望は全く無関係であるはずだ。そのはずで、そもそもそうだ、俺は小学生が好きなわけじゃない。だから小学校なんだ。俺はもっと、そうだ、目の前のこの人みたいな、俺の興味はそこにはないんだよ。ほとんど大人だからと言い訳をして高校生に手を出す輩や、内心でも汚して悦に浸る奴らとは違うんだ。違っていたはずだ。高学年女子の発育について笑って語るような輩に俺は省かれた。普通の人々に、虐げられる。子どもたちが、愛おしく、害するものを許せず、ああ、だから俺はこの人に縋って、辿り着いたんだこの楽園に。 「キミはえらいね。ボクにもわかるよ。ボクもみんなのこと守ってあげたいから」 「……わかってくださるんですか?」 「うん。キミは頑張ってここまで来てくれたんだよね。だからキミはボクにたすけさせてくれた」 「そう。そうなんです。でも俺は誰からも赦されない、呪われている」 「……キミの欲しいものも、きっとボクはわかる」 包み込むように細く折れそうな腕が絡みついた。エル様の指が俺の背を撫でる。俺の胴を抱くエル様の髪が、肩口に触れる。短く切られたと話していた髪。彼が子どもではないという証明。抱きしめ返すことはできなかった。してはならないと、本能が告げていた。 「抱きしめられるとね、怒っていても、悲しくても、許してあげたくなるんだよ」 エル様の教えが沁みる。あれは冤罪だった。でも、俺が赦されない存在であることに代わりはない。そのはずだった、ここに来るまでは。 「やっぱりキミはここに居ればいいよ。キミがどこかに行く必要ない。みんな先生のことが好きだし、欲しいものはボクがあげる……」 耳元で囁いたエル様が俺の頬を撫でる。呼吸が落ち着くまでしばらくそうして、それから向き直ってまっすぐ俺を見た。 「俺が望んでしまったら……」 「そうだね。ボクが出来ることはなんでもしてあげる。でもボクがしてあげたいって思ってる……それっていけないこと?」 守るべき倫理、背負うべき恥、打ち明けるには醜すぎる欲望。それらすべてが、この人の前では意味を失っていく。崩れ落ちていく。 「キミがしたいことを言って。キミが欲しいものを教えて。ボクはそれを悪いことだなんて、思わないよ」 返事ができない。指が震える。 俺を眺めていたエル様の顔がこちらへ近づく。息が触れそうな距離。目を逸らす暇すらなく、唇の横、頬の骨に触れるような柔らかさで、エル様はキスをした。それは音すら立てぬほどに静かで、熱が移るのがわかるほどに近かった。印を刻まれたようだった。濡れた吐息が触れた肌に、かすかな火傷のような痕が残っているとさえ錯覚した。目を開けていられなかった。見れば、全てが終わってしまう気がした。それは俺がどれだけ望んでも許されないと思い込んでいたものだった。 「キミのお願いを聞いてあげる。だから、ボクのお願いもきいて?」 この楽園には赤い果実が実らない。この地には知ることも咎も存在しない。俺はこの楽園を、自ら去ることが、出来るのだろうか。それとも、俺は俺自身を赦してしまうのだろうか。 空の下のオレンジに似た笑みが、暗室の中で燈々と照り映えるようだった。